- 日々のつれづれ
部落差別・人権西日本夏季講座
「部落解放・人権西日本夏季講座」を受講しました。立命館大学の富永京子准教授の講座「なぜ社会は変わるのか、社会運動を考える」は、[日本ではなぜ「社会運動」が根付かないのか]というわたしの疑問でもある内容。
社会運動って聞いたときにデモや激しい集会、政策提言などを連想して『古臭い』『危険』といったネガティブな印象を抱く人もいるでしょうし、政治的な活動から距離を置こうとする傾向がある日本社会においてはアレルギー反応は根強い。(数字的にも日本人のデモ参加率やジブンゴトと考える割合はずいぶん低い)。
でも社会運動は、イデオロギーには関係なく、社会をより良くしようとする人々の意思表示的な活動なのです。
実際に私たちの身近にある権利や制度の多くが、過去の社会運動の成果によってもたらされたもの。男女雇用機会均等法や教科書無償配布、障害者差別解消法、さらには近年の同性パートナーシップ、女性労働者の服装規定の見直し、ヘイトスピーチ法、カスタマーハラスメント条例…これらは誰かが声を上げ、組織的に動いたからこそ実現したものです。
社会運動への参加率が低い一方で、その恩恵は誰もが日常的に享受しているという事実をまず知る必要がある!
これほどの成果があるにもかかわらず、なぜ私たちは社会運動遠く感じてしまうのか?
背景としての一つは、社会の「個人化」と言う視点。わたしたちは何か困り事や生きづらさがあっても「自己責任」として片付けたり、個人の努力だけで解決しようとしたりしがちです。でも社会運動の本来の意義は、そうした個人の苦しみや痛みを「社会全体の課題」として捉え直し、構造的な解決をめざすことにあります。個人化が進む今だからこそ分断されがちな個々の声を社会へとつなぐ連帯の仕組みが必要不可欠なのです。
「困っている」と素直にいえる社会の空気と、小さなことでも声を上げて良いという自分への「許し」が必要です。
「長時間労働だけど、過労死レベルではないから…」
「貧困だけど、生活保護をもらうほどではないから…」
などと、自分の要求を過小評価し我慢を選びがちな私たち。でも小さな不満にふたをしていては、社会はますます硬直化していくばかりです。
身近な違和感や困り事に気づき、声を上げていくことが社会運動の練習になる。ちょっとした意思表示から始めて自分の生活圏を少しずつ変えていく…そういう成功体験の積み重ねの先にこそ社会運動や政治参加があります。
日々の生活の中で声を上げるトレーニングが欠かせないとあらためて実感しました(学校や家庭でも)。
もう一つの理由として、自治会、労働組合、PTA、青年会議所といった中間組織の衰退があげられていました。
声をあげるよりも自力で頑張ることが前提の社会では、生活者や労働者として置かれた環境の中で順応することが最適の選択肢となってしまうし、そもそも政治や職場に対抗し、提言していくという選択肢が思いつかなくなります。
社会運動はみんなのもの。組織や地域の中のダイバーシティーを担保することや、疲れないやり方で続けていくことが大切。身近な場から持続的に、政治や社会に対して自分の意見を言っていきましょう!それを呼びかけたい。